【脱力】中村克サンが『最後のパレード』問題で「公式見解」を発表 ※追記あり


★〈「最後のパレード」事件に関する公式見解とお知らせ〉(10月1日)〔魚拓


『最後のパレード』が著作権法をクリアしていない「欠陥商品」であることは認めつつ、著作権者に謝罪するつもりは金輪際なく、版元と読売新聞社に責任をおっかぶせて終わりですか。読み進めるほどに脱力感が募ってきます。



「社団法人『小さな親切』運動本部関係者には、神を汚す読売新聞ではなく、神に従う私を信じていただきたい、そう願ってやみません」


神を盾にして“俺を許せ”と主張するためにバプテストになった洗礼を受けた*1んですか? いやはや。


たぶん後からコメントを追記します。なお、議論板はいま落ちていて(午後5時半現在)、しばらくシベリアで話が進むようです。


【追記】
著作権法の話はとりあえず置いといて、中村サンの人間としての姿勢を問題にします。


そもそも中村サンの信仰など他人にとってはどうでもいい話で、ましてや『最後のパレード』問題とは何の関係もありません。自己を見つめ、己を律することが信仰というものの本義だと思うのですが、中村サンはことさらに「神」や「聖書」を引き合いに出し、独自の解釈で自分に都合のいい行動(この場合は許し)を他人に押しつけようとするだけです。こんなやり方が通用するなら、DVの加害者などはこぞってキリスト教に改宗し、「聖書には、『だれかがあなたの右の頬を打つなら、左の頬をも向けなさい』(マタイによる福音書5:39)と書いてある。おとなしくもう1発殴らせろ」と主張することでしょう。


おまけに、「裁いてはなりません。裁かれないためです」(マタイによる福音書7:1)という言葉を引用しつつ、読売新聞の読者を「愚者」と呼んだことについては謝罪の言葉すらない。中村サンが「人は人を裁いたとおりに裁かれるのです」と書いている通り、今後も中村サンには厳しい批判の言葉が投げかけられることでしょう*2


挙句の果てには、「キリスト教徒との聖戦の扉を開いてしまった反友愛精神を貫く読売新聞の大罪」などと書いて、自分のチンケな過ちをキリスト教徒全体の問題に拡大しようとする始末。そんなに被害者意識に凝り固まっているなら、さっさと読売新聞を訴えればよろしいのに。もっとも、キリストは
「敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい」(マタイによる福音書5:44)
ともおっしゃっていたはずですが。そういえば、請願やら公開風質問状の話はいったいどうなったんですかね。


さらに、この期に及んで「神に誓って『盗作者』ではない」と言い張り、
「社団法人『小さな親切』運動本部に謝罪したくても謝罪する理由が見つからずに困惑している」
「神を汚す読売新聞ではなく、神に従う私を信じていただきたい、そう願ってやみません」

などと平気で口にする。
「オリジナル(あひるさんありがとう)の存在を知っていたのか、それとも知らなかったのかは関係ありません。/結果的に他人の著作権を侵害したことに対して、謝罪の念を表明していく所存です」
という話はどこに行ったのでしょうか。



中村サンが「聖書に手を置いて」何を証言しようが、著者としての責任を免れられるものではありません。PHP研究所が著作権の問題で出版を断念した経緯を重々承知していながら、何を今さら、
「大手出版社であれば稟議書が通らなかった可能性が高い商業出版に加担してしまった」
などと他人事のようなことを言っているのか。まして、中村サンは東村山の矢野穂積「市議」を引き込むことにより、


「現在、出版社側に、この団体がつきつけているという要求項目には金銭請求は入ってはいないようだが、今後どのように推移するのか、注目していきたい」東村山市民新聞〈「真相究明 10」〉、中村サンも〈「読売」と「小さな親切運動本部」の狙い(1)〉として転載)
大分県別府市在住の人物は、単なる『アヒル』の着ぐるみにすぎないものを、『ドナルドダック』の着ぐるみだと断定して虚偽の表現をしたことになるのは自明である」東村山市民新聞〈ついに自白!「ど素人解釈」を平気で公表する哀れ〉)
「たしか、この方〔「あひるさん、ありがとう」執筆者〕は、コメントまでだしていたのではないかな?」
などと、原著作者とその代理人(「小さな親切」運動本部)を侮辱し続けることに加担したわけです。以下の記事も参照(東村山市民新聞」の関連ページは私のまとめWikiを参照)。


それなのに謝罪の言葉ひとつ口にできず、「神に従う私を信じていただきたい」などと吐き捨てる人間に、さらには「私は性善説的に、・・・事後に誠意を持って対応することにより問題は解決されると考えていました」などと誠意のかけらも感じられない認識を吐露する人間に、
「今日まで株式会社サンクチュアリ・パブリッシング側は、当方に誠意を持った対応をしてきませんでした」
などと文句を言う資格はないでしょう。何ですか、けっきょく著作権者が性悪なのが悪かったんですか?


他にもいろいろつっこみたい点はありますが*3、最後にひとつだけ。けっきょくユニセフ協会への寄附ができなかった件(5月8日付で寄附を断る決定が行なわれ、返金されたことは『創』8月号の記事でも報じられている)について、中村サンはこう書いています。


「当初はユニセフへの寄付金の返還要求にも応じていただけませんでした」


当初は」ということは、サンクチュアリ出版がいったんユニセフ協会に寄付した177万6600円は、中村サンがすでに受領済みということなのでしょうか。だとすれば、そのお金をどうする(どうした)のか、中村サンには直ちに説明する義務があるでしょう。

*1:バプテスト以外でも「バプテスマ」という言葉は使うみたいなので、訂正しました。

*2:ちなみに、「推定無罪」は陪審制の裁判にだけ適用される原則ではありませんし、これがキリストの教えに由来するという主張も眉つばものです。淵源はローマ法の法諺主張するものは証明を要し、否定するものは要しない」(ei incumbit probatio qui dicit, non qui negat――立証責任は主張する側にあり、否定する側にはない)にあるという話もありますが、この原則が制度化されたのはフランス人権宣言(1789年、フランスにおける拷問全面禁止の翌年)が最初とされており、どっちにしても中村サンの主張には根拠がない。中村サンは万事この調子ですが、少しは調べてから口を開いた方がいいでしょう。

*3:【追記】もうひとつ、「この一方的な催促状には正直、義憤の念を禁じ得ませんでした」にもつっこんでおこうと思って、忘れていました。こういうときに「義憤」という言葉は使いません。勝手に落ちた穴の中で私糞にまみれてればいいと思います。