中村克にはこれっぽっちも教養がない


やっぱり本人降臨だったのか。




「しかしながら、キリスト教の教えを絶対的行動基準として、日々生活しているクリスチャンと接する場合には、最低限のキリスト教の教えや、慣習などは知っておかなくてはなりません。なぜならば、クリスチャンを苦しめることになるからです」


表現活動に携わる場合には、著作権に関する最低限のことは知っておかなくてはなりません。なぜならば、他人の著作権を侵害し、刑事上・民事上の責任まで問われることになりかねないからです。ちなみに、〈[http://s01.megalodon.jp/2009-1027-1114-36/gpscompany.blogdehp.ne.jp/article/13559891.html:title=国際人権活動委員会に人権侵害として訴えます。]〉と言っていた中村克は、[http://d.hatena.ne.jp/three_sparrows/20091028/p3:title=著作権も国際法で認められた「人権」である]ことをそろそろ覚えてくれたでしょうか。無理かな。


読売新聞の門間記者も、2ちゃんねらーから得た情報が違っていたら、著者や出版社はどのような気持ちになるか、損失を与える結果にならないかなどを想像する能力が欠落しているのです。私の家族への影響も、「おかまいなし」なのです。「無神経」なのです。人として恥ずかしいとは思わないのでしょうか。


著作権者の気持ちを踏みにじってなお妄言を吐き続け、自殺未遂者の体験談や「いじめの体験談、戦争の体験談、被爆体験談、ハンセン病による差別の体験談、水俣病や薬害エイズ事件などの体験談」を「データ」としかとらえずあらゆる表現や悲劇を(自己満足や自己正当化のための)オカズにしてしまう中村克が言うセリフではありませんね。「教養」=「恥ずかしさを知ること」であるならば、中村克には教養などこれっぽっちもありません。


「あひるさん、ありがとう」執筆者の声明(PDFファイル)をあらためて引用しておきましょう(太字は引用者=3羽の雀)。

「思いがけない出来事だった、着ぐるみだからお顔は見えない、お声も聞こえなかった。けれど励ましのお心はしっかりいただいた。病む夫にも、介護の私にも元気をくださったあひるさん、ありがとう」
 はがきキャンペーンに応募した「あひるさん、ありがとう」の終章です。
 あれは、ディズニーランドでなく、まさに私の家の近くの遊園地だったのです。寒い一日でした。けれど、風の冷たさを忘れ私達二人の心は、ほかほかと温かく感謝でいっぱいだったあの日を、夫の思い出と共に今も胸に抱いています。私共が体験・感動したあひるさんの行動は、その遊園地のマニュアルにもない着ぐるみの中のお人の持つ人間性・やさしさが溢れ出たものです。
 今回のことは、正に青天の霹靂としかいいようがありません。
 私の大切な思い出へ土足で踏み込まれたような不快感を覚えます。
 此度、「小さな親切」運動本部様のご好意を賜りましたので私見を述べさせていただきます。
 読売新聞社から今回の件について問合せがあったのが、4 月19 日(日)21 時30 分。翌朝、記事が掲載されました。それから既に旬日(じゅんじつ)を経ている現在、出版社、著者から私に何等かの釈明、お詫びがあって然るべきではないでしょうか。また、公式の場で釈明の記者会見をするのもお詫びの方法ではないでしょうか。
 文章のあちこちを勝手に変えられて、私の意とする処は語尾変化ならまだしも、語幹まで変えられてしまったことに、私は夫との思い出まで踏み躙られた思いで怒りと共に寂寥感に浸っています。


以下の記事も参照。