じゃあ「僭称ジャーナリスト」にしましょうか


いま26日のお昼です。本当は日付順に記事を埋めていく予定だったのですが、瀬戸サンから、11月25日付のエントリー〈創価学会は最大の社会悪:創価学会に与する如何なる勢力とも断固闘います。〉で、私が瀬戸サンのことを「詐称ジャーナリスト」と呼ぶ理由を(間接的に)尋ねられましたので、それにあわせて25日付の記事を先に書いておきます。それにしても、私が〈瀬戸サンによる「創価」認定の経緯を検証する〉を掲載した日の夜にこんなエントリーがアップされたのは、単なる偶然なのか、それとも何か意味があるんですかね。


まず、「詐称ジャーナリスト」と呼ぶ直接の根拠は、瀬戸サンがかつて「ジャーナリスト」を名乗る唯一の根拠として挙げた『読売年鑑』で、実はジャーナリストとして認められているわけではなかったという事実です。この点については松沢呉一さんが〈お部屋1712/瀬戸弘幸への説明と質問〉であらためて説明していますが、あわせて下記も参照。


瀬戸サンは今回、「私は国会記者会館にも席を持つ記者であり、また、国土交通省の記者会や鉄道記者会にも所属して」いることを、もうひとつの根拠として持ち出してきました。


どうやら、「ジャーナリズム」、そしてそれを体現する「ジャーナリスト」についての考え方が、私と瀬戸サンでは根本的に違うようです。瀬戸サンは、誰かから形式的に「報道・評論・出版」関係者ないし「記者」として認められれば、それだけで「ジャーナリスト」を名乗る資格があると考えているらしい。


一方、私は、10月10日付〈ジャーナリズムは「飯の種」か、それとも「方法」「精神」か〉でも書いたように、ジャーナリズムの精神を体現していない者に「ジャーナリスト」を名乗る資格はないと考えています。ろくに(あるいはまったく)取材もせず、当然知っているはず(あるいは知り得るはず)の事実をしばしば無視し、主観や憶測や印象や伝聞に基づいた文章を平気でブログで公表したあげく、批判されると“これから調べる”“本人に聞け”などと言い放つ人間に、いったい「ジャーナリスト」を名乗る資格があるのでしょうか。
【追記】ちなみに瀬戸サンは、〈速報!「安倍事務所」朝日新聞社を提訴:「朝日新聞言論テロリズム」と対決へ!〉(2007年5月9日付)で、「裏づけも取らないで、最初から結論ありきのジャーナリズム」について「常識では考えられない手法」と評しています。


瀬戸サンは、そんな人間でも「ジャーナリスト」を名乗る資格があると考えるのかもしれませんが、私はそうは思いません。むしろ、そんな人間を無批判に「ジャーナリスト」と認めることは、ジャーナリズムの自殺行為であると考えます。瀬戸サンが「○○記者会所属記者」と名乗ることは詐称ではありませんが、「ジャーナリスト」を名乗ることは詐称と評されてもしかたがない。


多くの人が言っているから正しいというわけではありませんが、このような認識を共有するブロガーは少なくないようです。

【追記】わ〜、凪論と清風匝地からのトラックバックをまた削除してら(26日午後7時過ぎに確認)。


以上の点に関わる具体的事例はこれまでさんざん取り上げてきましたが、ご要望であれば、そのうちまとめておきましょう。ご要望でなくとも、いずれ時間ができたら、あるいは時間がなくても勢いにまかせて、まとめると思いますけど。


とりあえず、今回のエントリーと関連することでもありますので、11月22日付〈瀬戸サンによる「創価」認定の経緯を検証する〉で指摘した点についてお答えいただけますかね。具体的に質問しないとおわかりにならないかもしれませんね。


(1)「創価学会」から「創価学会に与する」へと表現が変遷してきたのはなぜか。調べもしないで「創価学会」などと言っていたことについて、どう考えるか。
(2)「創価学会からお金をもらっていると思われるブロガー」という表現は撤回したと判断してよいのか。
(3)われわれを「創価学会に与するブロガー」と断言する根拠は何か。


もう1点、私が瀬戸サンを「ジャーナリスト」として認めがたいのは、まともな反論もせずにいきなり「刑事告訴」や「個人情報開示」をちらつかせて相手を恫喝しようとすることが少なくないからです(ついでながら、ジャーナリズムの根幹である「取材」も、瀬戸サンにとっては「恫喝」の手段に過ぎないと思わざるを得ないことについて、10月10日付〈ジャーナリズムは「飯の種」か、それとも「方法」「精神」か〉の後半を参照)。


今回も、松沢さんの批判にブログ等の公的な場では答えようとせず、コソコソと電話をかけて、「私を『詐称ジャーナリスト』と書いたことに関して、その訂正を求め、もし応じて頂けないならば、名誉毀損ということで刑事告訴も含めて検討する」と伝えようとしたそうではありませんか。私に対しても、理由を尋ねたいならまずはブログで堂々と質問すればいいものを、なぜか「こちらの管理人は氏名が分からないので、管理人の本名を知る手続きから始めなければならないようです」と、いきなり私の素性を知りたがっている。


刑事告訴の件について、私は9月9日付〈矢野・朝木両「市議」の言論封殺体質を象徴する“一部勝訴”〉で次のように指摘しました。

ところが、瀬戸氏は今回の勝訴に乗っかって、恫喝のつもりなのか、「これでこのおはら汁の発信者の住所・氏名が明かされれば、今度は本人に対する名誉毀損刑事告訴が待っています」などと、矢野・朝木両「市議」でさえほのめかしてもいないことを言ってしまうと。いろんな意味で、この人は本当に「ジャーナリスト」なんでしょうか。
〔中略〕
第2に、こちらの方が重要なのですが、言論に対しては言論で対抗するのが原則で、民事裁判に訴える場合にもまずは言論による解決の道を模索するべきです。まして、公職者が名誉毀損刑事告訴するなどというのは、最後の最後の手段でなければなりません。ましてや、仮にも「ジャーナリスト」を自称する者が、公職者による刑事告訴を煽るようなことを口にするのはもってのほかでしょう。
〔中略〕
このような観点から、私は、『週刊現代』1995年9月23日号に掲載された「東村山女性市議『変死』の謎に迫る 夫と娘が激白!『明代は創価学会に殺された』」という記事に関し、創価学会が『週刊現代』と朝木大統・直子親子を刑事告訴したことについてはきわめて批判的です(1998年7月に不起訴決定、ただし民事では『週刊現代』と朝木親子側が敗訴)。瀬戸氏はアンチ創価という割に、やっぱり“創価体質”が染み込んでいるんでしょうか。


この点については橋本玉泉さんも、「言論には言論をもって応じるという行為は、わが国のみならずジャーナリズムの世界では国際的な認識である」と指摘している通り。なた5963さん(清風匝地)もちらっと触れています。


個人情報開示の問題については、ワールドワイドウェブさんが2週間以上前に瀬戸サンに問いかけを行なっており、あわせて私も若干の質問をしておきました(11月9日付〈瀬戸に“耳”あり 開示は無理無理〉参照)。お答えください。ついでに質問しておきますが、瀬戸サンは、昨年12月の記事で、「常日頃ネットにおける匿名性の重要性を訴えてきた自分が、相手の素性を明らかにするようなことも余りしたくない」と書いています。このような姿勢は、すでに放棄したと考えてよろしいでしょうか。


もっとも、「詐称ジャーナリスト」という表現は瀬戸弘幸批判の本質に関わる問題ではないので、そんなにお気に召さないのなら、そして以上の質問にきちんと答えていただけるのなら、いつでも“自称「ジャーナリスト」”に戻しますよ。いや、むしろ、柳原さんが指摘しているように、「僭称ジャーナリスト」とお呼びする方がふさわしいかもしれませんね。ちょっと検討します。


そういえば、「なめてんじゃねーぞこら」と罵声を浴びせずにはいられないほどの「罵詈雑言」を言われている柳原さんに対しては、訴訟をちらつかせたりはしないんですね? ふーん。やっぱりねえ。以下のコメントも参照。

与する勢力と戦うのは良いが、どうして本体と戦わないの?
まだ愛知の人たちの方が解かり易く戦ってくれてる。
どうして瀬戸先生は敵の牙城である信濃町で街宣しないの?
本当は相手にもされてない虫ケラと違う?
Posted by 不思議 at 2008年11月25日 21:43