まともな説明ができずに「理解責任」を持ち出して国民を馬鹿にする『最後のパレード』著者・中村克


久しぶりのヌログ更新が、これですか。


それが、タイトルの「国民の理解責任」です。「ためしてガッテン」ではありませんが、説明しても「合点(うなづくこと)」できる能力がない、つまり「理解できない」「頭が悪い」国民が多すぎるということです。


自分では、『最後のパレード』著作権侵害問題に関する説明責任を果たしてきたつもりだと思ってるんですかね。こんな二転三転七転八倒する説明しかできない人に、「『理解できない』『頭が悪い』国民が多すぎる」と言われても困るんですけれども。


なお、「理解責任」という言葉は私もあまり耳にしたことがありませんでしたが、中村克の造語というわけではないようです。


だからといって、「『理解できない』『頭が悪い』国民が多すぎる」などと(しかも中村克が)言ってしまっては、こういう考え方を唱える人達にとってはかえって迷惑なんじゃないかと思いますけれども。矢野「市議」もしばしば次のような捨て台詞をかまして逃げてしまいますが、これは「説明能力」がないことを自認しているようなものですよね。


いちいち説明のいらないお話です
説明は不要だ
説明がいらない話だ
いまさらいうまでもありません
諸君らのそのレベルでは理解は不能だ、引っ込んでなさい!


【追記】
記事を書いている間にもう1本来ました。今日は怒涛の更新になるのでしょうか。


〔前略〕
改めて読んでみると読売の邪悪さを思い知らされます。「最後のパレード」事件では、読売新聞は2ちゃんねらーにだまされるという大失態を犯しても反省もしていません。私からの「質問状」にも回答しません。すべての読売の「邪道への道」は江川事件から始まった、私はそう考えます。


「東村山市民新聞」の迷宮〈『最後のパレード』著者の言い分(3)〉にようやくひとつ記事を付け加えられましたが(追記:その後あらためて検討し、最初から「遺言」と書いておけばいいものをわざわざ「遺書」と書いている記事もいちおう追加)、ちょっとパンチ不足ですね。早く読売新聞提訴の報告を聞かせていただきたいものです。


【追記2】(1月21日)
説明責任の問題について橋本玉泉さんが次のように書いていましたので、メモしておきます。

だから、同様に、不必要な説明というものも存在しない。いかに明白な事実であっても、説明を行うという作業は必要であり重要なものだ。もし、「そんな必要は無い」などと説明を行わない事件や事象の当事者がいるとすれば、人格的に怠惰な者か、知能と論理的思考力の点において著しく劣っているか、もしくは何らかの「説明することが困難である事情」が存在するかの、いずれかであることは間違いなかろう。
(断片的な日々〈現実から逃亡し続ける中村克氏〉)