裸足で逃げてく妖気なホヅミさん 独りで笑ってる〜♪
「ガイドライン」の「市長の意見書」の箇所をイマサラ削除できるか?答えてみよ!
ひいきの引き倒しをしたかと思えば、いいわけたらたら!つける薬のない佐藤の応援団の右往左往、愉快だね、ホント。ヴァッハッハッハ!(敬称略)
以上、10月29日午後10時半過ぎ(22:36:09)に行なわれた、「東村山市民新聞」の10月30日付更新でした(トップページ、〈緊急告知!〉の下の囲み。太字が加筆箇所)。要は私の書くことに何一つ反論できないというわけで、いい加減このパターンにも飽きてきましたね。
今回の高笑いも、5月11日付〈恐怖新聞から聞こえてくる下卑た笑い声「アッハッハ」〉にサンプルとして加えておきました。「ドナルドダック」問題や「フォーラム21」裁判問題とまったく同じ経緯をたどりつつあることが、一目瞭然です。
「矢野サンたちが『愉快』がるのはだいたい追い詰められている時」だと前にも指摘しておきましたが、このへんで主な使用例をまとめておきましょう。
- 「愉快で愚かな墓穴掘りというところでしょうか」(4月20日付〈「白い小犬もいよいよ吠える。・・・空に一羽の雀が啼いても吠える」(北原白秋)〉参照)
- 「いいわけしてみたり、論破され破綻しているカビた『職業差別』論がいまだに正しい、と呆れた勘違いを続けてみたり、見てても実に愉快な有様です」(5月18日付〈いくら振り回してももはや用をなさない「伝家の宝刀」〉参照)
- 「6月2日本会議は、実に愉快な光景がみられました。傍聴席からみても、みなさん相当焦っているようでしたね」(6月3日付〈ついに洋品店襲撃をサイトで公然と容認した矢野・朝木両「市議」〉および6月7日付〈傍聴人を「毛ばり」に引っかけたと自慢する矢野・朝木両「市議」の異常な高笑い〉参照)
- 「100年早いっ!お黙りっ、ってところで、ホントニ愉快な話です」(6月17日付加筆分、6月17日付〈他人を「ど素人」呼ばわりする矢野穂積「市議」の「判決書を読む力」〉参照)
- 「創価系にも、政権交代に賛成、などという素っ頓狂な書き込みをする無節操な輩まででてきたから、実に愉快だ」(8月30日付〈矢野・朝木両「市議」に「佐藤の事実の隠匿」を批判する資格はあるか(いやない)〉参照)
今日は休憩ということでこのぐらいにしておきます。矢野・朝木両「市議」(NPO法人「林檎の木」理事・監事)がまともな説明をしようとしない保育士数虚偽申告事件についても、なるべく早くまとめWikiの方に項目を作りたいと思っていますし。途中経過と結果について、とりあえず2008年5月24日付〈改善指導を「なかったこと」にしようとするりんごっこ保育園〉および2009年2月15日付〈やっぱり都から職員不足を認定されていたりんごっこ保育園〉も参照。
【追記】
松沢呉一さんが紹介していた「図書館学徒未満」というブログを眺めていたら、〈「もっと勉強しろ!」〉というエントリーが目につきました。次の指摘はなかなか示唆的です(太字は原文ママ)。
議論において土台となる知識の量は重要な問題です。論題について余りにもお互いの知識量の差が激しいと、議論ではなく一方的な講義に終始してしまい、結局議論すべき問題の本質には踏み込めずに終わったりします。
だから、相手が自分より圧倒的に知識量が少ない場合は「もっと勉強してからもう一度このお話をしましょう」と言いたくなったりするのです。
■知識は言論を封殺する道具なのか
さて、ここで忘れたくないのは「相手に「もっと勉強しろ!」と言いたくなるのは、相手とこの問題についてもっと踏み込んだ話をしたいからであり、自分の優位性を見せ付けることで相手を黙らせたいからではない」という点です。
「もっと勉強しろ!」という言葉は、相手に当該問題についてより深く知ってほしいという願いの発露であると同時に「無知な人間はこの問題について発言する資格が無い」という言論封殺の意図を表すこともあり、二重性を帯びています。
「(ど)素人」「100年早い!」等の言葉を連発する矢野・朝木両「市議」(5月13日付〈「百年早い」で批判を封殺しようとする矢野・朝木両「市議」の傲慢な「全体主義体質」〉も参照)は、まさに「自分の優位性を見せ付けることで相手を黙らせたい」のであり、「無知な人間はこの問題について発言する資格が無い」という言論封殺の意図を丸出しにしているわけですね。けっきょく、「自分の優位性を見せ付ける」どころか、「ドナルドダック」問題に象徴されるように、いつも真逆の結果になってしまうわけですが。